広陵東組オリジナル正信念仏偈
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【寺族部会】研修旅行「一向一揆試論……長島・三河紀行」武田勝道

一向一揆試論……長島・三河紀行

 平成27年1月22日(木)~23(金)に、広陵東組寺族部で長島・三河を訪れた。団長部長(広寂寺)武田達裕・副部長(光明寺)碓井真行・立案(善教寺)乗元善昭・(妙蓮寺)法山総貫・(善通寺)古川知行と(教西寺)武田勝道のメンバー6名である。

 旅行第2日目から書き記す。

三河一向一揆は、永禄6年(1563)から永禄7年(1564)まで、徳川家康と戦った真宗門徒の「農民」一揆である。中心寺院は、西三河にある三河三ヶ寺である。本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町野寺26・tel 0587-55-2614)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町梅ノ木34・tel 0564-31-6277)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町朱印地3・tel 0564-31-5402)の三ヶ寺で、現在すべて真宗大谷派である。名古屋近辺の有力寺院は、もとは高田派である。

本證寺は、下寺の本證寺といわれ、7,000坪の境内を誇る。城郭寺院で、内堀の内側で2万坪である。門徒も2万軒であった。上宮寺は、土地の上宮寺といわれていた。大谷大学学長の佐々木月樵(養子)の寺である。勝鬘寺は、門徒の勝鬘寺といわれる。時代が変わって、「下寺」と「土地」は失われ、現在は勝鬘寺が一番余裕があるようである。

私は、従来から、真宗は農民の宗教ではない。商人・鉱工業者の宗教である。というのが持論であった。(「鉄と真宗」平成8年(1996)12月12日中国新聞)今回の三河一向一揆の旅で、この一揆が、徳川VS農民ではない。旧時代の真宗門徒武士VS新時代の真宗門徒武士の構図である。三河三ヶ寺の住職は、領主である。

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川氏の軛から脱した徳川家康が、三河に戻り、三河の中世的支配関係を徳川家に一本化する過程(当然徴税システムを徳川に一本化することが中核である。)が、三河一向一揆である。寺院側についた徳川家の武士は、本田正信をはじめとして徳川家の中核の武士たちである。なお、正信は、一揆のあと出奔している。三河は、天正11年(1583)まで真宗禁制になっている。

 中村元は、埋もれていた曹洞宗の僧侶鈴木正三に光を当てたが、正三は、関ヶ原の戦いで本田正信隊に参加したのが初陣の旗本である。私は正三に真宗の匂いを感じるが決して荒唐無稽ではないだろう。

 徳川家康は、天才である。その宗教政策はすばらしい。これは、真宗をはじめとする仏教側にとっては骨なしにされるということである。うがった見方をすれば、江戸幕府は真宗からその牙を奪うために、「農民の宗教である」との真宗門徒に事実と違う自己認識を持たせたのではないかと思っていた。それを、今回の三河一向一揆の旅で改めて確信した。

 今日の始めは、岡崎の妙源寺柳堂を訪れた。三河の最初の真宗寺院である。

 今日の終わりは、西方寺(碧南市浜寺町2丁目19・tel 0566-41-4009)である。清澤満之の寺である。満之は、尾張藩士徳永永則の長男である。東京大学を退学させられたりしたが、哲学科を首席で卒業している。卒業後、26歳で清澤やすと結婚し西方寺に入る。40歳まで西方寺にはほとんど帰っていない。満之は41歳で死んでいるから、死にに帰ったようなものである。

 若い住職に、清澤満之が養子に来た頃も西方寺は豊かな寺だったかお聞きした。豊かな寺だったようである。弟子の佐々木月樵も養子であるが、寺へ養子に入るには、豊かな寺でなければ、能力を開花させることはできないということか。

名古屋駅で、矢場とんかつを食べて、新幹線に乗った。

旅行第1日目に戻る。

長島は、願証寺があったところであるが、今は河川改修のため何もない。旧願証寺跡は長良川の川底である。願証寺は、長島一向一揆の拠点寺院である。織田信長の長島攻めは、第1回が元亀元年(1570)元亀2年(1571)、第2回が天正元年(1573)、第3回天正2年(1574)で長島城は落城した。願証寺寺主の証意は、長島城主である。

 長島の地は、木曽川・長良川・揖斐川の三川が海に入るところである。洪水時の避難場所として建てられたこの地方特有の建物である「水屋」がある。願証寺は洲にあった寺院である。洲はいわゆるアジールである。権力から解放された市場が形成される場所である。熊野神社・賀茂神社、広島では、草戸千軒・三次が洲に形成されたアジールである。

 長島は、尾張・美濃・伊勢の交わるところであった。真宗は、大阪・吉崎・金沢・鞆ともに富の集まる場所を抑えている。真宗と日蓮宗は、信者が競合したから対立したのである。信者が異なれば対立しない。信者の違いにより教義も影響を受けるが、教義の違いだけでは宗教の宗派は対立しない。

 豊田の真宗大谷派浄照寺(北の御所)は、1,300坪の大坊であった。名古屋より離れると、1,000坪~2,000坪なければ大坊にならない。名古屋市内であると、500坪で大坊のようである。三河の三ヶ寺は、通常の寺院を超えた別格のようである。北ノ御所は、東本願寺を創立した教如が住んだ建物で、139㎡の広さである。徳川家康と反豊臣の教如の東西本願寺分派会談の舞台と推測されている。(中日新聞(平成23年(2011)1月4日)によると、もともとは、西本願寺にあったものである。18世紀に大谷本廟に移され、1970年頃、名古屋の弁護士が譲り受けたものである。)平成22年に6,000万円で移築したものである。団長の広寂寺武田達裕寺族部長に「知っていたら広寂寺が買ったでしょう」と話しかけるとうなずいていた。縁がないと成就しないと話し合った。1970年頃にさかのぼることになるが総局は、宗門内にまず声をかけてから外部に譲渡するべきであろう。武野以徳元総長への本願寺のお宮殿を移置するときに貸与という形式にしているが、末寺を拘束するべきでなく、無償譲渡(売却に近い額の懇志が求められると思う)や売却の形をとるべきである。(「武野以徳さんは意気軒昂」blog安芸ねっとwebry2006.12.14)

 名古屋の東別院(名古屋市中区橘2丁目8−55・tel 052-321-9201)を訪問した。元禄3年(1690)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された。雨の中、閉門時間を過ぎていたが、本堂に参拝し参拝接待部の近藤司さんから説明をうかがった。

 名古屋は、東本願寺が圧倒的に優勢である。徳川の意向であろうか。城端の善徳寺・井波の瑞泉寺(慶安2年(1649)西本願寺派より真宗大谷派に転派)とフォッサマグナを名古屋富山にシフトしたように真宗大谷派の巨大寺院がドットされている。例外は、伏木の勝興寺が西本願寺派である。前田家と縁の深い寺院(一国一城逃れのような巨大な城郭寺院である。)であるが、前田家は徹底的に徳川家に恭順し、前田利常が徳川秀忠の3歳の娘珠姫を妻に迎えており、大派への転派圧力を逃れたのであろうか。

(H27(2015).02.16武田勝道記)

 

 

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